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川崎元気企業紹介
「『川崎窒化に頼めば何とかなる』と言ってもらえる会社にしたい。人の喜ぶ顔を見るのが何より好きなんです」快活な笑顔でそう語る川崎窒化工業株式会社の平田社長は、若さあふれる45歳。創業者である先代社長の弓惣二郎氏から引き継いで4年目となる。ベトナムに現地法人を設立するなど、海外進出にも積極的な同社の成長を支えるものは何か
●先代からのスムーズな引継ぎ 平田社長は文系出身だが、幼いころから手を動かすのが好きで、現場一筋で新手法の研究に没頭し、生産部長などのキャリアを積み上げてきた。約10年前には副社長に就任。2009年8月の社長就任に至るまで、基本的実務の引き継ぎが徐々になされたという。 社長交代の半年後となる2010年2月、先代社長が交通事故のため逝去。親分肌の創業者を失い、精神的には寂しい思いをしたが、金融面の引継ぎも終了しており、会社経営面で突然困ることは無かったという。 「人に任せる勇気がすごい。先代に非常に助けられた。方法はそれぞれだったが、人を喜ばせるのが大好きだという到達点が似ていた」と語る平田社長は、先代社長が亡くなった際に、人との縁、ものづくりに携わる者同士の繋がりにも助けられたという。次期経営者への引継ぎは多くの中小企業において悩みの種だが、スムーズな世代交代を行った同社には多くのヒントがある。
●縁から始まる海外展開 窒化処理とは鉄鋼製品の耐摩耗性・耐腐食性向上のため、金属表面に窒素を染み込ませて表面を硬化させるプロセスのこと。川崎窒化工業株式会社は窒化処理の将来性を見込んだ先代社長が、同郷の先輩である川崎クローム工業㈱社長から支援を受け、1976年に創業した。創業1年目にして日立製作所日立工場の窒化品認定工場となり、顧客の信頼を獲得。1985年には大阪工場(大阪府八尾市)を設立し、関西地区の顧客要望にも配慮しながら生産体制を整備していった。 。
「社長交代が2009年の夏。2008年のリーマンショックにより業績が落ち切った時点での交代だった。一品物の世界は中国にとられてしまっており、営業品目を増やすためにベトナム進出を決めたが、実はもともとは海外に出ようという意識は無かった。進出につながったのはたまたまつながった縁が続いたからだ」と平田社長は語る。 ベトナムに工場を持つ顧客がいるなどの縁により2010年秋に訪越。「商売にならないから日系の熱処理専業会社がいないのではなく、熱処理業者がいないから仕事が無いのであり、今後は需要が見込める」と確信し、工場用地を即購入したという。ベトナムとの相性の良さも決め手の一つだったようだ。
2011年12月、ベトナム・ホーチミン市近郊のミーフック3工業団地(ビンズン省)に「カワサキ・ヒート・メタル・ベトナム」を設立。同社初の海外工場で、真空浸炭炉を新設したほか、大阪工場から窒化炉などを移設した。 「ベトナム人は日本人の若い労働者が嫌々やるような作業も真面目に取り組んでいる。その姿を見ているうちに愛おしく思うようになった。現地従業員の約半分は日本語が話せるなど非常に親日的。班長クラスの20代ベトナム人3人を3か月間、大阪に連れてきて実作業の研修を受けさせていたが、ベトナム人のスキルアップにつながっただけでなく、教える側の日本人社員も刺激を受け、襟を正したようだ。ベトナム赴任に手を挙げてくれた者もおり、社員が自発的に動くようになった。新しいことに取り組むことで社内の雰囲気が変わったことがうれしい」と平田社長は喜ぶ。 国内では取引がなかった企業とベトナム工場をきっかけに、新規取引に繋がっただけでなく、事業に広がりが出てきているという。徐々に増えつつある引き合いに対応すべく、2013年春には新たに専用機を投入する予定であり、タイ・インドネシアからも車・バイク関連の依頼があるそうだ。既に2010年春にはフランスの熱処理原料販売企業との合弁会社も設立し、大阪・ベトナム両地にて合弁工場を置いており、「雇用を守るためにも今後も積極投資を続けたい」と平田社長は意気込む。
●定評のある技術力と品質 少量多品種の産業機械一般は川崎本社・工場にて処理を行い、大阪工場では建設機械向けの量産品を扱うほか、真空浸炭研究所を設け、新技術の開発にも積極的に取り組んでいる。顧客満足を得るにはさまざまな対応が求められるからだ。 「窒化は各産業で活用されており、『川崎窒化に頼めば何とかなる』と言われるよう、今後も当社の規模を活かして、顧客のニーズに小回りよく応えていきたい」と語る平田社長。経済産業省から素形材産業環境優良工場に表彰されるなど、技術力と品質には既に定評があるが、さらなる向上に余念がない。